サイケモンの日記

つらいのは少ないといいな。

会話の仕方ってもう義務教育で習ったほうがよくないか

 コミュ力どうこうとか言って、会話の仕方を個人の能力でどうにかさせるのって、集団として無理あると思う。

 アメリカ留学中は、スモールトークの仕方に始まり、意思表示とその理由付け、そして相手の意見聞く姿勢、と言ったことを習った。北欧の国ではコミュニケーションに関する授業が低学年からあるとも聞く。でも、対話の仕方を体系的に教わったことが日本の教育においては無い。*1

 日本では核家族化が進み、都市部では日本の異なる地域から来る人も多い。そんな日本においては、もはや移民の人と日本人との間の理解以前に、見た目が同じ日本人同士でも、もはや各個人の背景は多様で異なる文化的な背景を持っているので、異文化出身同士の会話の仕方が求められていると言える。なので一昔前のように、単一民族であるみたいな前提をもとにしているような、察する文化や、暗黙の了解とか、そんなものの上に会話が成り立つとは思えない。

 自分の気持ちを吐露することばかりに注力してしまうような会話の仕方では、もう、個人間の理解はでき得ない。異なる意見、そして他人には想像を得ない地雷ポイントを各個人が持っている中で、人々が孤立化していく中で、会話の仕方という初期装備かつ共通の装備が無いことには、個人同士が傷つけ合わずに理解し合うことはもはや難しい。相手のことを慮るにも、それを共通認識出来る武器を用いて表現する必要があるし、もはやその武器は必須であると言える。そして、会話は他人との間でしか成立し得ないのだから、自分ひとりが頑張って装備をしたところで効果は出ない。

 皆、同じ考え、似た考え、同意はできない考えを持っていて、で人と話すっていろんな意見や気持ちが折り重なる。自分の意見を曲げる必要もないけれど、他人もなるべく傷つけたくないし、自分も傷つけられたくない。そういった時に使える基本的な会話の技術があるはずで。

 「他人って、そこまで人のこと考えて物言ってないと思うよ」と友達に言われて、そっか、と悲しくなったけど、それって結構どうにかなることだし、どうにかしないといけないことなんじゃないかなと思って。

*1:ディスカッションの授業は確かにあったけれど、意見を対立させる前提