サイケモンの日記

たのしいことあると嬉しいけど、なくても大丈夫。つらいのは無いのがいいな。

「私ですらできないのに」に引っかかる

 中学生の時、「私よりも○○ちゃんは点数高かったんだよ。すごいよね。」と母親に話して、とても怒られたのを覚えている。

自分は評価する側である、という誤解を含んだ表現であることへの指摘が大きな理由だった。ただ、母の怒りの熱の強さはそれだけではなく、彼女自身がその年頃の時に、同様の言葉を発し、友人と喧嘩別れになった苦い思い出があることも影響してるだろう。

そんな出来事のせいもあり、「私」基準で比較する表現に対して、少しばかり過度に反応するようになってしまった。

「俺ですら挑戦できないのに」

 二股していた相手のラインを2日前にブロックした。ブロックに至ることになった言い合いにおいても、こう言った表現が出てきていた。

 別れた直後、二股相手から、女の子紹介してと言われていた。自分もまだ好きな気持ちは残っていたので、なにか彼のためになれるのなら……と、気が進まないものの同期のBちゃんを候補に挙げた。「プライベートでも資格の勉強をしてるし、自炊もしてるちゃんとした子だよ」と。相手は、「資格の勉強は凄いわ、俺ですら挑戦できないのに」と返してきた。でてきましたよ地雷文章が。

 

 ここで、この文章の前後を通常の文章に戻すと、
「俺ですら挑戦できないのに、(Bちゃんは)資格の勉強(しているの)は凄いわ」になる。
この文章を簡潔にすると、
「Aですら○○できないのに、Bは○○していて凄い」になる。
この場合、AはBよりも○○の実施において上手にありそう、という前提が置かれることになる。例を挙げると、
「小学生ですら書けない子が多い漢字なのに、君はできていて凄いね」という文章。ここで、「B=君」は「A=小学生」より下の年齢にあるはずだ。

 

 地雷文章における上記の考えのもと、なんでお前は評価する側なん?なんでお前はBちゃんより上の立場にいるような発言をしてるんだよ、と思い、高飛車で申し訳ないと伝えつつ、「失礼じゃない?」と返してしまった。もう別れたし、この人のことなんか、どうでもいいんだから指摘しなくていいんだけど、誰かに紹介するとなれば話は別だ。そんな態度で紹介相手へ臨んでほしくないな、と思っちゃって。まあそもそも、自分が選ばなかった男を、他の女に紹介しようとしている私もクソなので全部クソ会話なんだけど。


 失礼ではないかと指摘すると、相手は「いや、むしろ、自分では挑戦できない、っていう意味で下手に出てると思うんだけど」と返してきた。同じ日本語を話していても文法の認識が異なる相手がいることに、少し恐怖を抱いた。きっと、彼は「俺は挑戦すらできないのに」と言いたかったのだろうか。世の中には、思っていることと、それ表現するために用いている文法が異なる相手がいることを実感した。


 指摘されてすぐに防衛反応に入ると、指摘を上手く受け取れない相手なんだなって思われるから、気をつけようと思った。それに、この相手がもし本当に自分の文章が間違っていると認識できていない、指摘の方がお門違いと思っているのであれば、あまり一緒にいても居心地の良い会話が出来そうになさそうだったなと分かって良かった。だいたい多くの人ってそんなに指摘するわけじゃないと思うのよね。

 

 他にもその相手とは、言語の不一致エピソードがある。「怒る」という言葉についてがある。彼は、「怒る」を「感情はあまり込めず指摘をする、注意する位の気持ち」で使っていると言っていた。「怒る」という言葉に感情をあまり含めていない…? 嘘やろ。「喜怒哀楽」という感情を表す言葉を知らんのかこの人は。

 

 自身の言葉アンテナを信じて、自分に合う合わないを判断して良いと思う。やりすぎると自分に合う人がいなくなっちゃうけど、こと、「友達」とか「恋人」においては、コミュニケーションでもって関係が成り立つことが多いので重要な判断要素となる。

趣味仲間とかお互いの利益関係とかだったら、むしろこのアンテナは立てないほうが何も考えずに接することが出来て良いかも。