サイケモンの日記

たのしいことあると嬉しいけど、なくても大丈夫。つらいのは無いのがいいな。

妹の生活保護と母の看病

 2020-09-07

 4月の上旬、妹からもう母の看病に耐えられないという電話があった。

 

 妹はこの3月に大学を卒業したが、就職はしていなかった。3月中旬から、癌を患い、抗がん剤治療を決意した母の看病を一遍に担っていた。父は仕事を理由に看病しなかったし、母は妹に対し、「社会人一年目の人はもっときつい」と、3食の料理と洗濯等の家事を任せ、寝る前は一人で寝れないからと添い寝を要求した。一人暮らしをする人間なら、自分の作る料理で何回同じものを作ったってかまわないし、もし主夫/主婦だったら、「またこれーーー?」なんて言うガキの言葉など一蹴すれば良い(でも、実際は言われたらくそくそくそくそ怒りボルテージが上がるだろうな。そんなことを言うガキどもがいた時に、私の側についてくれるような人が配偶者になってくれるといいけど、そんなガキ見たいなことを言うやつだったらどうしよう。どうやって離婚しよう。どうやって折り合いつけよう…。)でも妹は、高校入学後から大学卒業までにかかった学費1600万円を返せという証書を書かせてくる親(こんな証書は効力何もないけどね。でもこんなことを書かせてくる時点で関係性の修復をしようという努力はなくなる。親が子供を操作しようという表れでしかない。)に対して、この看病をしている。つまり立場が弱い相手への従属状態で家事をしている。苦手なことだけど、頑張るだけ頑張った。今まで虐待と毒親をさく裂し、信頼関係なんか構築されてない、ただの血縁者である「母」のために。で、その母は、料理を作ってもらって、おいしくないって言うんだよね。ジャガイモ料理が何日続いただの、キャベツ料理が何日続いただの、腐った魚を食べさせられただの。まあ実際傷んだ魚を調理しちゃったらしいんだけど。(妹は、大学で一人暮らしをしていたが、その下宿先にはポータブルIHヒーター一つしかなかった。料理をずっとするなんて状況がいきなりって。凄い負担だよ。)なぜ妹を擁護するかというと、母は、自分が買い物はしてくる元気があるときはして、無いときはまかせるっていう、臨機応変さを求めてくることや、母が買い物したときなんかはこちら側に材料の選択権がなかったりする。この状態で行うの料理は難易度高いよ。シェフかよ。冷蔵庫にあるもので3色おいしいものを作れ!ってプロ主婦・主夫の方がやるようなこと、でもないけど、を要求されている。言われた家事をしない、フルーツは切って5分以内のものなんて言う要求に、応えられないと、謝っても終わらない愚痴の放出を浴びせられる。連鎖的に過去の話を持ち出され、なぜ今怒られ始めたのかの起点となることからは遠く離れた話でいつの間にか怒られている。おーいもどってこーい。そんな怒り心頭状態から落ち着いた彼女が後に言う言葉は「怒っている人は寂しい人なのよ」なんだよね。まあわからんでもないけど、みんな悲しいし孤独なんだけどな。常日頃から悲劇のヒロインである彼女がいうと、白々しく感じてしまう。怒りを正当化しちゃだめだよ。私もカエルの子はカエルで、彼氏にあのセリフ言っちゃったことあるんだよな…ゲロや…。

 

 そんな生活を3週間ほど妹は続けていた。その間、妹とはラインで良くやり取りをしていたが、とにかくストレスを抱えているな、私は実家から離れていて何もしていないなと、自分の無能さは感じていた。そのころ並行して母からも長文メンヘラ闇・愚痴ラインが来てたが、母はヒマなメンヘラなので、世話をしてもらってる妹にも同じように送るらしい。自分の部屋にこもっても、母のラインに追われるし、実際、部屋にこもっても、添い寝してモードで自由時間を奪われたり、気が狂うよそりゃ。一緒に寝てくれないと死ぬ、一緒に寝てくれないと警察呼ぶって言ってくるんだって。この、母と妹の生活リズムに関してだけど、3月中旬に、妹と母がうまくやれるような生活リズムについて話し合いをした。この時間は母の看病の時間、この時間は妹のプライベートの時間って。それでも、社会人の勤務時間程度の時間を母の看病の時間に充てていたけれど、結局母親がしてほしいのは、そういった「勤務」としての看病じゃなくて、家族の「愛情」としての看病を欲していた。だから勤務として時間を決めるんじゃなくて、当初は妹のプライベートの時間にも看病を求めた。でも、信頼関係ではない従属関係にある相手に愛情の気持ちを沸かせるのはマザーテレサかマリアか菩薩でだって無理だから、義務だと思っている。さらに反発心や憎しみを抱いている人間に対して看病をする抵抗感に加え、自由を縛れば、誰だって逃げ出したくなると思う。そんな流れで、冒頭の通り、4月の上旬に、妹と電話越しで聞いた妹の声があまりにも辛そうで、実家を離れて一緒に暮らそう。とにかく重要な書類とか、自分に必要なものだけ持っておいで。と言って飛行機をとって、無理矢理に実家から引っ張りだした。代わりにではないけど、コロナで研究活動も、授業もよくわからない状況だったけれど、とりあえず4月末までは授業がオンラインになるということで、母の看病に帰ろうと思った。代わりに犠牲になるみたいなそんな高尚な理由じゃなく、毒親から逃げた子にありがちな、今なら母となんとかやれるかもしれないという、思い違いが私をそうさせたし、また「血がつながってるから」「母のためになりたい」「助けになりたい」という気持ちもあった。どうしてこんな気持ちが出てくるんだろうね。一つ理由を挙げるとすると、私が母と少なからず共依存だからというのがある。私は長女として、母対応マニュアルを家族の中で一番確立させていて、妹や父よりは、母が何をしたら怒らないのか、どう先回りをしたら母が喜んでもらえるというか、怒らないのか、自分の意思を通したいときは(なかなか通らないことが多いけど)どういう言いかたをすればいいかっていうのを積み上げてきている。母の顔色伺いに関しては実績を積んでいるから、看病出来ると思ったんだろうね。

 

 そして、母に私が看病に行くことを伝えた。妹は母に行先なんか伝えてないから、消えた妹の代わりに姉が看病に来るっていう、私の好感度が上がるシチュエーションだよね。その際に、休学しようか?と言ったら、「3月中の切除手術の際に休学してくれるかお願いしたときは、私が断ったのに何を今更…」みたいなことを言っていたのも癪に障った。私たちだって、学業を優先したいという気持ちがある。院に入学したんだから、研究やって就活やってって言う計画がある。それを全く後押しせず、自分が何をしてもらえるのか、自分が一番優先にしてもらえるべきであるって信念が固定しすぎている。なぜ、そうしてもらえると思うんだろう。皆、結局自分がかわいいさ。自分が出来る範囲で相手を助けられることはする。私が全部引き受けることはできない。だから、みんなにちょっとずつ助け合ってもらえるように、自分もちょっとずつ助けるんじゃないかなあ。そして、それが叶うように、相手のことを思いやったり、慮ったりするんじゃないかなあ。こういう自分最初にありきの考え方から私はまだ先へ進めないけど。

 

 そういうことで、4月の2週目に私は実家に帰り、当初は4月末までの看病の予定で、妹の代わりとして看病を始めた。結局、授業が全部オンラインになったので6月の中旬まで看病は続けることになったのだけど。母が受けていた抗がん剤は、最初はAC療法というものをしていた。2週間に1回点滴を行うのを約2か月間。このタイプの抗ガン剤は副作用が強い。母に対しては約3日間はかなりだるいらしく、そのだるさが同じ時間かけて回復していき、一週間たつと自分で活動できるくらいには戻るというのを繰り返していた。基本、このめちゃくちゃ辛そうな5,6日間は私が家事を一手にやって、フルーツを母の希望する時間に出して、授業を受けて一日が終わり、母が回復した頃合いになると、家事の分担をして、空いた時間で家の片づけを手伝うということを繰り返していた。ちなみにこの家の片づけというのは断捨離である。実家はとにかく物が多い。普通の4人暮らしのアパートの4倍くらい物がある。スーツケースは20個はあっただろうし、妹が寝室にしていた部屋は、物が押し込まれ、2段ベッドには、その物たちを踏みつけて登ぼらなければらなかった。そんなものだらけの部屋で安らかに寝れないよね。こんなに物がある原因は、母が物を拾ってくること。粗大ごみシールが貼ってあるものをアパートの下から引き取って、粗大ごみシールを奇麗に取って、シールは次に使えるようにためておき(まあほとんど使うことはなかったけど、断捨離の時は使ったなあ)、どんどんどんどん家に物が増えていく。父は私がかつて寝ていた部屋で寝ていたが、そのベッドの上には突っ張り棒で吊り下げられた洋服がずらっとかけられ、ベッドに寝ると洋服が顔から7㎝に迫る。廊下に物が並んで、廊下の幅の半分は物で埋められている。とにかく動けば何かが落ちるような家だったが、看病の期間中に妹寝ていた部屋も、リビングも床が見えるくらいの状況にした。とにかく頑張った。今まで同居していた時は、勝手に物を捨てて怒られたし、今回もこれはいらないよね?って私が決めてしまうと母はとにかく怒った。まあそうだよね。だんだんと私も辛抱強くなって、母も自分で何が必要なものなのか分かるようになってくると断捨離が順調に進んでいった。とにかく私は彼女が要る、いらないと判断したものを所定の場所に移動させることにだけ注力すると、物事が進んでいった。とにかく信頼することが大事。とにかく頑張ったけど、6月上旬までの間に数回ぶつかった。私主導でレシピが決められないこととか、母に逐一対応しなければならないこと、やめてほしいという父親の愚痴を一向にやめないことが原因となって、私の怒りが爆発して母を押し倒して殴ったこともあった。何でだろうなあ、上手く言えない。看病中の家事や片づけで自分の時間が犠牲になっているという焦りとか、どうしてやめてということをやめてくれないんだという怒りとか、我慢とか、やっぱり昔の憎しみとかがこみあげてきて、殴ってしまった。やっぱり私はまだ折り合いがつけられてないし、とにかくこの怒りが爆発してしまう現象は、日々の私の過ごし方とかアンガーマネジメントとか、私がどうにかしないと、今後私が子供にやらかすことになるから。ちゃんとした真人間になりたい。

 

 そして今まで全然出てこなかった父親だが、出てこないのは本当に関わらないからで、この2か月間本当に看病をしなかった。コロナを理由にして。一度、数回母の通院に同行して、その時に薬剤師の人に、抗がん剤で免疫力が下がっている妻の看病は、コロナの影響もあるので、会社に通勤している自分はあまり行わないほうがいいですよね?みたいな質問をした際に、それは人生の選択ですよねと言われていた。結局本当に看病しなかったし、人生の選択も何も、ただ彼女の看病をしたくないだけ。そして父親の一番いやなところは、離婚するというリスクをきちんととれないこと。自分が悪いことをしてきたから、分が悪いのは当たり前だから離婚しないんだろうけど、なあなあと、居心地の悪い家で定年まで暮らすのかと思うと反吐が出る。全部周りが動いて、それに対応するだけ。自分で全く動かない。あんな糞人間が出世するような会社は糞でしかない。

 

 結局、一つ目の抗がん剤の後二つ目の抗がん剤に入ったくらいまでの丸2か月間看病をしていたが、途中からは実家で1日中過ごすことが苦になり、母親と大喧嘩した日に彼氏のところに帰ったのをきっかけに、朝6:45に彼氏の家を出て、22時くらいに彼氏のもとに帰るという生活が1か月くらい続いた。土日とかは、何回か休みをもらえるようにした。

 でも、途中母の日や誕生日というイベントがあったから、色々母にすることが出来て本当に良かった。けど、すごく、不自然な感じだったけど、でも、悪くはなかったんじゃないかなって思う。母は、私がしたことよりも、父とか妹とか他の人がしてくれなかったというところに意識が向いてそうだけど。何回もぶつかりあい、どなりあいをしてしまったけど、とにかく悪いと思ったらとことん謝って、言いたいことがあったらきちんという、最後まで向き合う、良い状況になるまで向き合い続けるというのが大事だなと思った。でも、これは「母親」っていう自分にとって唯一の人間だからかもしれない。これが、だれか友達とか、特に彼氏とかと付き合うときにここまでするのかというと分からない。というかここまでできるのは、お互いにこの関係を持てる相手が唯一あなたなんだと認識している必要がある。どちらかが逃げたら向き合えないから。そして、家族だからって逃げちゃいけないわけじゃない。絶対に。逃げていい。逃げたい気持ちがあって向き合っても良い結果にはならない。無駄。なぜなら逃げたい相手と追いたい相手がいて、逃げたい相手が無理して向き合ったら、利益があるのは相手だけ。片利共生はきっと長続きしないし、それは寄生されてる状態だよ。自分の人生を生きなきゃ。

 私は母に対して逃げたくない気持ちで看病しに行ったし、母は逃げられない、むしろ追ってくる人間だから向き合い続けることが出来た。私が逃げたくない気持ちになったのは、たまたま離れて暮らしていたからで、毒親の怖さを忘れていたこととかが原因になっている。逃げたくて離れたのに。そして、このとき向き合える時間と余裕が私にはたまたまあったし、向き合わなくても、結局長文愚痴ラインとか、愚痴電話とかに対応し続けなくちゃいけないなら向き合うかなという気持ちとか、仕送り止まったら困るからっていう利益関係もある。今後向き合う余裕が出来ることなんて、滅多にないと思う。現に今は無理。途中そんな母親でも私から逃げたがっていたのは、メンヘラな母親に対して上手くやるには私もよりメンヘラになってオウム返しするようになった頃かもしれない。とにかく上手くやるためにいろいろやって、っていうのは入力を変えれば出力が変わるんじゃないかなと思って。結局は上で言ったように、本音を出してぶつかっても、良い結果が出るまでじっくり逃げずに関われば結果は見えてくるかもしれないし、私はそれを望んでいたというのが分かった。家のかたづけも前までは表面だけすることが多かったけど、とにかく根本的にじっくり、ゆっくり、諦めないで完成像に近づくまでやり続けると結果が出る。というか結果が出るまでやることが重要だなと思ったし、出来るんだという自己肯定感に繋がった。でもやっぱり、母に寄生されてるのかもしれないし、結局思ったのは、この看病を永遠にやることは無理だから、むやみに母の手になることは出来ないなと。逆に私が出来るときだけしてできないときはしないなんて言うのは理不尽なのかもなと。妹はきちんと縁を切る方面で、私はなあなあな関係で、距離を保ちながら、仕送りをもらうという利益を得つつ、上手くやっていきたいけど、今後どうなることやら。

 恨みや、共依存関係や、いろんな思いを抱える母への看病を通じて思ったことは、「自立には申し訳なさが伴う」ってことだったな。もっとカッコイイ言葉で、偉人がそんなことを言ってたのを、看護期間中によんで、それでいいんだなって思った。

 

 そのあと、妹との札幌での2人暮らしが6月の終わりから今日9月の頭まで続いた。一緒にご飯作って食べたりと、最初は上手くいっていた。でも、7月の中旬から、私は課題と研究で忙しくなって、妹と夕飯を一緒に取ることがなくなったり、研究室も家も自分のプライベートがなくなってしまって、そのことに凄くフラストレーションがたまってしまった。忙しくて彼氏との電話もあんまりしたくなくなってしまって、というか話もイライラしてしまって。それで、チャットを再び始めた。新しい人との会話はやっぱり楽しいし、たまたま気が合った相手は転職の間の自由な期間中で、私が話したいときに話せるし、そういうのもあって仲良くなってしまった。電話でもそういう話をしていたし。また、家で一人で出来ないのもあって、出会い系サイトにも少しの期間登録してしまった。そこでドライブに行ったのが2人、夕飯を食べたのが1人、そして家まで行ってするようになってしまった人が1人。とにかくこの時期は荒れてた。とにかく満たされなくて、あと、妹のために生活費を我慢したり、生活自体を我慢していたり。家に帰ると、部屋の掃除をしていない部分に目が行ってしまったり、お夕飯作ってくれたのに食べられなかったり。研究で忙しくしてるのに、なんで妹はもっと就活を頑張らないんだろうとか思ったりして。とにかく真人間ではなかったし、今もそうかもしれない。そして8月の中旬に、男に逃げてる自分が嫌になってることとか、なんで頑張ってない妹のために生活を我慢をしなきゃいけないのかが相まって、掃除してって妹に言った後にすぐやってくれなかった妹に対して怒りが爆発して殴ってしまった。あんたのためにこんなに我慢してるんだって。そんなことを言って殴ってしまった。妹の荷物をレシートとかのご見事全部スーツケースに入れて出て行けって。母親と同じようなことをしてしまった。妹も、あんたがこっちに無理やり引っ張り出してきたんだとか、めちゃくちゃあおること言ってきたけど、本当に私ががやっぱり抑えられなくなってしまってて、一緒に住むのはダメだと思った。とにかく、怒りが抑えられない自分が嫌だった。もっと、自分を貶めない方法で、自分の辛さを受け止めてもらいたかった。でも、彼氏の仕事の終わりは遅くて、その遅い時間には私は家にいて、でも妹の愚痴を妹のいる部屋では言えないし、上手くやってる風を装ってしまっていたし。この、上手くやっている風を装っていたのは、なんでなんだろうな、結局近くにいる人たちみんなの悪口をお前は言うんだなって思われたくなかったのかな。今でも思われたくないけど。こういう愚痴を言える相手がいなかった。研究室の同期はこういう思い話はあまり好きじゃないみたいだし。辛かったんだね、うん辛かった、って言える相手が、この時は欲しかった。それに性欲をちゃんと処理できなかったのも、悶々としている原因だったんだと思う。どうなんだろう、他の女の人ってこんな風にならないのかなあ。結局、出ていけって妹に言った後に本当に申し訳なくなって、明日進捗報告の報告内容全然進んでないよって思いながらも、ずっと妹を探して、電話かけたり、彼氏に妹を殴ってしまったことを言って話したりしていた。妹は何回か電話に出てくれたけど、着信拒否になったりしてしまった。電話に出てくれた時には、本当にありがたいとは思ってるけど殴ったら母親とか父親とかと同類になっちゃうよ。殴ったら悪者にされるのは自分自身なんだよって言ってくれた。本当にやさしい子だなって。いろんなことが苦手でも、それに苦手なことが数個あってもやっぱりいいところばっかりの子なのに、どうして掃除何てちょっとしたことに怒りが爆発しちゃったのか、自分の忍耐力の無さが悔やまれる。あんないい子を殴ってしまって、つらい思いをさせてしまって本当に本当に申し訳ない。就活だって、その前に私がちょいちょい口を挟むようになってから、色々やり始めていたのに。

 

 結局妹は、生活保護で一番最初にネットで出てきたシェルターに足を運んだけれど、そこが貧困ビジネスをやってるとこだって気づいたってこともあって、帰って来てくれた。そのあと、上手く一緒に住むルール作りとかしようって話になったのだけど、私は仲良くなってしまっていた人に週末会いにいったり、当時できたセフレに夜会いに行ったりなんかしたり、そのあと遠距離の彼氏のところにお世話にしばらく身を寄せてたりなんかしていて、結局話し合いは深まらなかった。でも、一緒にいるときは、妹もすごく許してくれて料理を久しぶりに一緒に作ったりして楽しかった。

 

 母が直に私の家に滞在する。そのため妹とは、妹はマンスリーマンションとかに住む必要があるよねって話をしていたのだけれど、それがなかなかいい値段がする。シェアハウスとかいろいろあったのだけれど。1つ気になる不動産紹介をしているHPがあり、保証人が要らない、2年契約とかもなく、家具付きの家を紹介するサイトがみつかった。そしてさらに、その団体は生活保護受給申請の補助をしてくれることを謳っていた。妹は貧困ビジネスに前に出くわしていたため、この団体が大丈夫なのかきちんと調べることにした。生活保護関連の非営利団体に電話してその団体について聞いてみたが知らないとの回答を得た。しかし、その非営利団体から紹介された社団法人に電話して同じく団体について聞いてみると、家の紹介で直接やり取りがあるらしく、貧困ビジネスをやってるところではないらしい。よかった。妹はこの裏付けを聞く前に、その団体の人と生活保護受給手続きを行っていたが、やっぱり裏が取れているのは安心だった。そして、生活保護受給手続きの前に紹介された物件もとてもきれいなようだった。きれいすぎて怖いくらいだったそう。それが八月の終わりで、その後ケースワーカさんと9月の上旬に会い、引っ越しをしたのが9月の第2週目。引っ越しと同日に区役所に行き、支給金を渡してもらえたそうだ。手元には1000円ほどしかなさそうだったし、とてもよかった。本当に良かった。

 

 妹との共同生活のお金は、食費は1か月は出していたけれど、途中からなあなあになってしまったから負担は6:4位かな、でも、それ以外は私が負担した。一人で暮らすのとそんな変わらないし、妹にはお金がないし半分でも請求するのは出来ないよね。あとは、妹が私の家に来る交通費だったり、途中の就活遠征費用を出したりしていて、私が母親から送ってもらっていた仕送りで2人をまかなうのは正直きつかった。わたしは研究に注力したかったからバイトはしなかったけれど、結局いろんなことに気がとらわれてしまって、研究一筋にはできなかった。結局お金が足りなくなってしまい、メンズエステがそんな風俗っぽいことしなくても稼げるということで、今週から始める。なんだろう悲しいけど。効率よく稼いで、いいお金の使い方したいな。そして妹は、わたしがお金がきつくなっちゃったんだって言う前に、就活遠征費と、同居していた期間で毎月1万円分を返すって言ってくれた。ありがたい。そして、私の家計状況を妹が区役所の生活保護受給担当者に行ったところ、お姉さんも大変そうですね、生活保護を受ける気はないんですかねと言ってくれてたと聞いて、涙が出てきた。わたしも辛かったっていうのが、知らない誰かがそんな言葉を掛けてくれるなんてとても嬉しかったし、この行政の公務員の人たちありがたいなって思った。凄く凄く嬉しかった。彼氏も、お金に困ったらいつでも言ってくれていいからねと言ってくれた。本当にありがたい。でも、とりあえず、頑張る。なんでだろう。なんで私こそ頼れないんだろう。凄く辛いです。ありがとうっていって、少し頼らせてもらうねって言えない。頼るのが苦手な人間には、強引にお節介をしてくれると、ちゃんとすがることがことが出来ます。もし身近に助けたい人がいるけど、その人が助けを断るときは、無理にでも助けてあげてほしいです。頼れないのが他人のせいみたいな言い方になってしまったけど、あまり、頼ることに慣れていないんです。どうして上手くやれなかったのって言われるんじゃないかと、思ってないけど、ちょっと思ってて、それが怖くて。

 

 院生には日本学生支援機構の無利子の奨学金を借りる機会がある。私もそれを受けたいと思い、4月に実家に帰る前が予約申請期間だったため、紙を提出しに事務に行った。しかし、コロナの影響で、手続きがいつになるのか分からないからと予約申請書(A4の紙の下ちょっとのかみっぺら)を受け取ってもらうことは出来なかった。その後てんやわんやで4月に母の看病をしに行ったため、申請は出来なかった。あのとき、予約受付をしてもらうことが出来ればなあと。正規の申請期間に申請したいですと申し出た紙を受け取って、いつになるか分からないけど、コロナで移ってしまう申請期間に事務でまとめて出すっていう策は大学の事務には無いのか。

 妹は、たまに死にたいと口に出します。私はそれを聞くのがつらいです。何ていったらいいのかわかりません。生きるのがつらかったら生きなくてもいいよという気持ちもありますが、私は本当に悲しいので妹に死んでほしくありません。妹の心が、とても軽くなってくれたらいいです。妹が誇りをもって就職出来たら嬉しいです。妹は本当に技術もあって、優しくて、こんな姉に手をあげたりしません。彼女が働いても手取り15万でぎりぎりの生活をする姿を見たくありません。妹はいろんなことを耐え抜いてきた強い子です。いろんなことがありながらも繊細な心を持っているがために辛そうですが、そんな繊細な心を無くさずにこの世の中と上手くやってくれるといいです。誇りを持った職に就けるといいです。そして、妹のことばかり心配していないで、私自身も自分の世話もきちんと見て、誇りを持った仕事が出来て、自分で稼げるようになりたいです。

 

 これが私の半年間でした。辛かったし、これからも少しその後が残ってるし、まだまだ続くけど。